Song for my Father

Album:
Song for my Father (1964)

Written by:
Horace Silver

Personnel:
Horace Silver — piano
Carmell Jones — trumpet
Joe Henderson — tenor saxophone
Teddy Smith — bass
Roger Humphries — drums

(Source: youtube.com)

17 minutes ago
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From the 1996 album “I’ll See You In The Rapture”
Written by: Jerry Mannery and David R. Curry, Jr.
Soloist: Emma J. Curry

Musicians:
Piano/Strings: Jerry Smith
Piano/Strings/Horns: David R. Curry, Jr.
Organ: Millard Thurston Cox
Drums: Sam Scott
Bass Guitar: Allen Golden
Lead Guitar: Keith Brown

(Source: youtube.com)

5 hours ago
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なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
  負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。

◆立岩 真也 2006/02/05 「他者を思う自然で私の一存の死・3」,『思想』982(2006-02):096-122 目次・文献表 [了:20060106]

 「一つ、このたびは主題的に論ずることをしなかったが、犠牲=利他という契機があると述べた。実際、安楽死・尊厳死は利他的な行ないとしてなされる。利他的な行ないは肯定すればよい。しかし、他人のために、次世代のために死ぬというその善意を受け取り肯定しながら、その人の言うことをそのままに受けて、その通りに行なってもらってはならないということである。その心意気を賞賛しながら、あなたはそんなことはしなくてよい、それはあなたにはさせない、と応じるのである。おそらく多くの社会にあって、こうしたやりとりの方がまっとうなやりとりだとされているはずである。そのままに相手の言うことを受け取り、相手を死なせることはさせないはずである。他人のために自らの命を投げ出したりした人におおいに感動しながら、しかし、それをここですることはない、と言えばよいのだ。あなたが死なければならないほどには誰も困ってはいない、すくなくともそれほど困らないようにこの社会をやっていくことはできると言えばよいのである。」

日本では安楽死は、医者と患者との問題としては、まだ未熟です。医者は患者を平等の人間とみなさないで、治療について詳しい説明をしません。患者のほうで、治療をつづけるか、拒否するかを、きめようがありません。安楽死を法をできめるより、患者の人間復権が先です。」(松田[19900220:48-49])
「生き方について、とやかく人から指図してもらいたくない、自分のことは自分できめるというのを、法律のことばで自己決定権というのだそうです」(「基本的人権と医学」『世界』1969年7月号)

家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
  尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
  物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。

  *知ってることは力になる 40>41>42

死というよりは、病気だけが、生き物としての人間が「みじめ」であることを気付かせて願いを掻き立てるのだ。この意味で、「肉体の病気」は「魂の良薬」である。」(pp.161-162)
「病苦に苦しむパスカルが、病苦に賭けていたものは、病苦を消せたとしても、決して消せないものであるが、それは何であろうか、と。それを積極的な形で言い表すことができるなら、こう言い返すことかできるはずだ。魂と心の病苦を薬物で消去しさえすればすべてが片付くと思い込んでいる人びとは間違えている、と。」(pp.164-165)
「医者の手によって不自然に生きつづけさせられる人間への美的な嫌悪から、人間の尊厳をまもるということではじめられた運動ではあるが、安楽死の法制化は性急な説である。人間の自己決定権に基づいて、医療の拒否からさらに殺人までも要求できるかということであるが、すこし無理のようだ。
 自己決定権というのは、決定しうる能力がある場合に、それを行使してかまわないということだが、医者が患者を死なせまいとするのは、患者の基本的人権を守ることである。基本的人権は人間が人間として存在するかぎり、本人の能力と無関係に本人に帰属する。したがって自己決定権はそれが権利であるとしても、基本的人権よりおよぶ範囲が小さいものと思わねばならない。権利を主張する能力の存在に依存するからである。
 自己決定権を貫こうとすれば、ぶざまでない死を自分に能力の残っている間にもらた法を考え出さねばならぬ。そうなると死を全然考えないでいて、他方で突然に死なせてもらうということではな(p.108)いはずである。
 安楽死の対象としてよく引き合いに出される、障害者、精神薄弱者、精神病者たちにも、それぞれに適したサナトリュウムがあるべきです。彼らにも生をたのしませることができるほど、健康な人間の人生は栄光と歓喜とに満ちていなければなりません。
 こういう社会保障の完成を夢ものがたりであるとし、それに何ら努力しようとしない人たちが、社会保障で解決されるべきものを、殺人によって代えようとし、その下手人に医者を呼ぶのです。それは人間の労働の生産性への盲目であり、歴史への不感症であり、人間の社会的連帯への不信であります。安楽死を法制化しようとしたものがナチ政権であったことは、このことを証明しています。(p.34)
 病むことの苦痛を否定するのではありません。しかし、どんな病苦も生きることを断念させるほど大きなものではありません。少なくとも人生は、肉体の苦痛をこえるほど偉大でたのしくあるべきです。」
(松田道雄「安楽死と医学」『芝蘭』1953-4→『生きること・死ぬこと』(松田道雄の本7)p.34-35)